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竹中氏は、日本人も「危機感駆動型」でなく、アメリカ人の「希望駆動型」に切り替えるべきだ、と説いているようだ。私もこの点では、アメリカ型のほうが正しいと思う。叱られるより褒められたほうが伸びるのは、国民性によらない、人間本来の性質だろう。
日本人も「希望駆動型」に切り替えよう、というこの話は、梅田(望夫)さんの言う「人を褒めろ」という話とも重なる。梅田さんから見て、日本の言説があまりにもネガティブで「残念」なものに見えるのは、<普通だったら「Excellent!」>であるようなアメリカ基準からすると、なおさら当然なわけだ。私がこの点で梅田さんに共感するのも、「叱られるより褒められたほうが伸びる」というのが人間の普遍的な性質であると信じているからで、日本のネット言説における「ネガティブ・バイアス」は、人間の精神にとって有害であると確信するからだ(「ネガティブ・バイアス」はネット以前から日本にあるが、非対面かつ匿名だといっそう助長されるのだろう)。
アメリカ人は「希望駆動型」、日本人は「危機感駆動型」 - Zopeジャンキー日記
これねえ…。桜井さんは僕の友人だからあまり「ネガティブ」な意見を言いたくないけれど。
たしかに、ネガティブよりもポジティブ、危機感駆動より希望駆動のほうが良いのだろうけれど、それぞれの国には時間発展的な経緯により進化論的に形成されてきた国民性というかエートスというのがあって、長年の間に積もり積もった結果として現れている、日本人の「危機感駆動」エートスはかなり強固だと思うのだ。こういった長い時間発展の結果を変えるのは一筋縄じゃいかないだろう。例えば肥満というのはそういった生活習慣が何年も積算することにより進化論的に現れた身体の状態だろうけれど、何年も積算された生活習慣を変更するのはちょっとやそっとの意志の力ではムリだというのは分かり切っていることだ。だから、「危機感駆動型」から「希望駆動型」にしよう、なんてお題目を唱えているだけではただのブルシットだよね。
もしも、その強固な慣習だとかエートスを変えようとするならば、なんらかのアーキテクチャ、それもかなりの強固な仕組みが必要で、そいつを議論しなきゃ実現可能かどうかさえ明らかにならないので意味がない。例えば人口のうち移民を10%にするとか、公用語として日本語の他に英語を採用するとか、日本の大学を廃止して高等教育は米国にアウトソースするとか。まあ、どれも非現実的だな。僕個人の考えでは、日本のエートスを国民の意志の力というような実現不能な方法でムリに変えようとする必要なんてまったくないと思う。
そもそもだ、実際にUSの会社で仕事をすれば分かるけれど、口で言われるだけで証拠に残らない”Excellent”や”Great”は”OK”とほとんど変わらない意味で、ただの挨拶程度だよね。本当の評価はメイルや文章で書かれるものだ。そして、そういったメイルや文章では気軽に”Excellent”なんて記されないよ。記したらそれなりの”Reward”を与えなきゃいけないからね。また、インド系やヒスパニック系やアジア系のUS国民は、口先であってもやはりあまり褒めないよな。また、ちょっと深くUSのwebを徘徊すればわかるけれど、”Hater”の量はUSのほうが多いと思う。日本のネットが「ネガティブ・バイアス」に偏っていると感じるのは、単に日本人が「英語ができない人数が多いバイアス」を持っているだけじゃないのか?更にはだ、「ネガティブ・バイアス」を持っているはずの日本人だって、たいして親しくもない外人に対しては、たいしたことないのに「なるほど」とか「すごい」とか「日本語うまい」とか褒め言葉を連発しないだろうか?人間同士のコミュニケーションにおいて、そのチャンネルや手段が限られているときは、褒めるくらいしかコミュニケーションプロトコルがないのだ。
このように、この「褒め系US国民論」には反論はいくらでも出てきて、あまりに雑駁すぎて議論の対象にすることすら難しい。まあ、事情を知らない方面を「釣る」ための典型的な「ではの守」論法ですな。
(via kashino)